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GIFUコレ!情報局42

神戸町 家康にまつわる民話

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■神戸町 白山神社■

関ケ原合戦があった慶長5年(1600年)、

家康は岐阜城が東軍の攻撃によって落城したと聞き、

9月1日江戸を出発して、小田原、清州を経て、

13日には岐阜城に入って、

14日には赤坂へ向かって進軍したとされています。

この地域には、家康が岐阜城を出て14日に赤坂に着陣するまでの

道中に起こった出来事として、郷土の民話に言い伝えられている話が

2つあります。


まずひとつは、関ケ原合戦の前日9月14日、

岐阜を早朝に出発した家康の軍は、

長良川を渡り岐阜市木田(きだ)から中山道を

本巣市席田(むしろだ)に進み、

神戸町の白山神社で休憩、その折、松の大樹に旗を懸けました。

以後、その松をこの地域では『旗懸けの松』と呼びました。

また、そのときに神戸町八条の禅宗瑞雲寺の住職が大きな柿の実、

一折を献上したところ、家康は「大柿(大垣)はわが手に入れり」と、

大垣にいた三成を指して言い、甘柿にも関わらず「ああシブかった、シブかった」、

(四部勝った、四部勝った、合わせて、八部勝った)と言ったとされています。

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もう一つは、先ほどのお話とは全く趣が違っていまして、東軍の家康の軍が、

西軍の総司令部があった大垣を通過するにあたり、

3万余の軍勢は中山道の岐阜市河渡(ごうど)を渡り、瑞穂市

呂久(ろく)をとおり赤坂へ向かわせ、自らは500騎ほどの精鋭を率いて

厳重に周囲を警護させ、東山道の岐阜市木田(きだ)の渡しを越えて、

本巣郡北方(きたがた)から神戸へ入ろうとしました。

その際、島津軍の鉄砲隊長、川上久林が率いる200名ほどの襲撃を受け、

命からがらこの白山神社に落ち延びたというお話なんです。

このお話は、のちに天下人となる家康には不都合であったので、

威厳を保つために箝口令(かんこうれい)が布かれ、

歴史上から削除されたのではないかとも言われています。

この民話の内容を説明した看板を、昨年「白山神社」に設置しました。

また、関ヶ原合戦広域ガイドマップにも掲載されていまして、

他の史跡とあわせて巡られるようになりました。


・白山神社までのアクセス方法  

養老鉄道広神戸駅下車、徒歩15分。

自家用車でお越しの場合は、名神高速道路大垣インターから

国道258号線を北上していただき、神戸町役場西の町道を北へ

向かっていただきますと、白山神社への誘導ポールがたっているので

目印にお越しください。

詳しくは、神戸町HPを、ご覧ください。